*
子どもの頃からスポーツ万能で、サッカーや野球、卓球など様々なスポーツに
熱中していた。中でも野球はリトルリーグ時代に千葉県大会優勝(小学6年生時)、
卓球では市川市大会2位(中学3年生時)という成績を収めている。
サッカーは小、中学校つづけてやるが坊主になるのが嫌でやめる。
*
Xのメンバーの衣装を製作していたのもTAIJIである。
浅草橋の問屋街へ出掛けては使えそうな小物やアーティスティックな物を買って来て、
オリジナルの衣装を作り上げていた。
*
LOUDNESSに加入した当時、Xという一見他のヘヴィメタルファンからは
色物とも思えるバンドから来た沢田を快く思わないLOUDNESSファンがステージに立った
TAIJIにブーイングを発したことがある。
TAIJI自身に対する不信感だけでなく、Xから流れてきた沢田ファンの場の空気を無視した
「TAIJI」コールも反感を買う元であった。
しかし、沢田のプレイが認められるようになると多くのLOUDNESSファンにも支持される
ようになり、LOUDNESSとしての人気が一番盛り上がる時期となった。
LOUDNESSはそれまでファンの中心層は男性であり、女性ファンはそれに比べると
少なかったが、沢田が加入した事によりライヴに女性のファンも多く獲得した。
(とは言え、以前から女性ファンもある程度おり、少なかったという訳ではない)
*
X脱退後から順風満帆とは言い難くなっていたが、特にD.T.Rの活動休止前後からは
TAIJIの人生は坂道を転げ落ちていくように墜ちていく一方になっていった。
仕事もプライベートも上手くいかず、精神的にもすさみ、荒れた生活を送るようになった。
妻からも離婚を突きつけられ、家を出た沢田は上野でホームレスとして
生活するまでになった事は有名である。
その後、ずっと疎遠であった実母から援助を受け安アパートで新たな生活を始めるが、
自殺未遂を図るなど精神的に不安定な状態が続いていた。
*
その後も酒の飲み過ぎで肝臓を壊したり、精神的な病にかかり入院するなど不安定な
状態が続く。
その後しばらくは精神的な不安定さはほとんど見られなかったようだが、
今度はバイク事故を起こし、一生松葉杖を使い続ける覚悟をしなければならない様な
大怪我を負い、心身ともに満身創痍の状態に陥る。
だが、今はやっと立った状態で演奏出来るまでに回復し、体に負担を掛けないように
マイペースで音楽活動を続けている。
*
1998年のhideの訃報の際には自身の生活もままならない中で葬儀に駆けつけた。
その場でYOSHIKIにケンカで折られた歯を見られ、後日YOSHIKIから300万円ほどの金を
渡されたとのこと
* X時代の名曲、「WEEK
END」のアレンジの際にベースラインにANTHEMの代表曲
「WILD
ANTHEM」のベースラインにヒントを得てアレンジをしたと2006年発売の
ロッキンfでの柴田直人との対談で新事実を明かした。
* デッド・ワイヤー時代、当時SAVER
TIGER(現・横須賀サーベルタイガー)の
メンバーだったhideがドラムのTETSU(現D'ERLANGER)を強引に引き抜いてしまい、
バンドは解散、二人の仲は険悪になってしまった。
しかし、hideがXに加わった頃には、和解した。
*
プライベートでは実に多趣味でその1つである料理は相当な腕前。
TAIJIは小学生の頃から、「レストラン泰司」という名前で週末になると数種類の料理を
用意して友人に振る舞ったり、ミュージシャンになってからでもレコーディング期間中は
自ら料理を作ってバンドのメンバーやスタッフにご馳走したりしていた。
最終的にはかなりの技術を身に付けたようで、「しまいには懐石料理まで作れるようになり、
その時ばかりはさすがに音楽をやめて、料理人になろうかとまで考えた」
とは本人の言葉。
無名時代、YOSHIKIと一緒に暮らしていた頃もTAIJIが料理を作っていたらしい。
*
中学生の頃から釣りにも凝っており、ある時父親が「ウナギなら一尾500円で買う」
と言うので、本気になって一晩で10尾を釣り上げたことがある。
他にも様々な種類の雑技に優れていたが、最後までやりたいと思ったのが音楽だった
という(自伝「伝説のバンドXの生と死」から)。
*
1978年-、中学生になると家庭の事情(両親が離婚し、母親が再婚したらしい)もあって、
非行にはしる。本人曰く
「中学3年までにケンカ、バイク、シンナー、女の類は全部やった」とのこと。
*
インディーズ時代は一時期渋谷のラブホテルで住み込みのアルバイトをして暮らしていた